革靴の手入れといえば、ブラシで埃を払い、クリーナーで汚れを落とし、クリームを塗り、もう一度ブラシをかける。この4工程が基本です。
スエードやヌバックの靴も、実は工程の並びはほとんど同じです。ところが中身の道具が総入れ替えになります。同じ順番で、まったく別のものを使う。
そして本当の断絶はクリームの一点にあります。よかれと思って塗ると、毛が潰れて光沢が出ます。しかも、落とすのにひと手間かかる。まずそこから説明させてください。
先に、スエードとヌバックは何が違うのか
同じ「起毛革」とひとくくりにされますが、この2つは出自が逆です。ここを逆に説明している記事が多いので、業界団体の定義から引きます。
日本皮革産業連合会の「みんなの皮革用語辞典」によると、ヌバックはこう定義されています。「皮革の銀面(表面)を目の細かいサンドペーパー等でバフィングし、短く毛羽立たせて仕上げた起毛革」。スエードやベロアに比べて毛足が非常に短く、しなやかでやわらかい肌ざわりが特徴とされています。
銀面というのは、革の表側のことです。動物の毛が生えていた側で、革のなかでいちばん緻密で丈夫な層。つまりヌバックは、革のいちばん上等な面をわざわざ削って毛羽立たせた革ということになります。
対してスエードは、革の裏側、肉面(床面)のほうを起毛させたものです。もともと毛羽立っている側を整えている、と考えると分かりやすい。毛足はヌバックより長く、ふわっとした手触りになります。さらに毛足が長く粗いものはベロアと呼ばれます。
手入れの道具はどちらも共通ですが、扱いの繊細さが違うと思っておいてください。ヌバックは表側の緻密な層を薄く削っているので、強く擦ると毛足が偏ったり、下の層が出てきたりします。指の腹でなでてみて、ビロードのように短くしっとりしていればヌバック、ふわっと長ければスエード。手元の靴がどちらか分かると、力加減が決まります。
なぜ道具が丸ごと入れ替わるのか
理由はひとつです。起毛革の価値は、毛が立っていることにあるから。手入れの目的が「表面を整えて艶を出す」ではなく、「毛を立てたまま保つ」に変わります。
だから、クリームが使えません。スムースレザー用のクリームやワックスは、革の表面に油分と膜を置くための道具です。それを起毛革に塗り込むと、毛が潰れて、光沢が出ます。艶が出るということは、毛が寝たということです。
では栄養はどうするのか。スプレーで入れます。液体を吹き付けて、毛の根元まで届かせる。塗り広げないので、毛が寝ません。起毛革の手入れ用品がスプレー中心になっているのは、この一点のためです。
コロンブスが案内している手入れの流れは、5つの工程です。①専用ブラシでブラッシング、②汚れ落とし、③栄養を与える、④補色する、⑤仕上げに防水スプレー。
スムースレザーの流れと並べると、増えているのは「補色」です。理由もはっきりしています。スムースレザーでは、乳化性クリーム1本が「栄養を入れる」と「色を足す」を兼ねていました。そのクリームが使えなくなるので、2つの仕事が別々の工程に分かれるわけです。工程が増えたのではなく、1本でやっていたことが分解された、と考えると分かりやすい。
ここから、4つの道具を順に見ます。
まず1つだけ買うなら。毛の根元の埃を出す:起毛革専用ブラシ
手入れの最初は、スムースレザーと同じくブラッシングです。ただし使うブラシが違います。
メーカーの手順では、スエード専用ブラシで丁寧にブラッシングし、毛足にたまったホコリを落とすとされています。狙いは表面ではなく毛足の根元です。起毛革の埃は、毛と毛のあいだに入り込んで沈んでいきます。そこを掻き出さないと、いくら上からスプレーしても効きません。
起毛革用のブラシには、真鍮などの金属、硬めのナイロン、ゴムといった毛質があります。硬いものほど掻き出す力が強く、そのぶん毛を傷めます。
最初の1本をはっきり書きます。金属とゴムやナイロンが両面になった、2面タイプを選んでください。市販でいちばん多い形です。そしてふだんはゴムやナイロンの面だけを使う。金属の面は、こびりついた汚れを掻き出すときの最終手段にしておく。毛足の短いヌバックに、金属の面を強くかけない。毛が偏ったり、下の層が出てきたりします。2面あるものを買って、片面を封印しておくのがいちばん安全です。
かけ方にもこつがあります。ひと方向だけに動かすと毛が寝ます。前後に、あるいは色々な向きに動かして、毛を起こしながら埃を出す。そして履いたあとに毎回これをやるだけで、あとの工程の出番がかなり減ります。
ブラシで落ちない汚れへ。水に浸けない:起毛革用のクリーナー
ブラシで出ない汚れには、起毛革用のクリーナーを使います。スムースレザー用の液体クリーナーは使えません。
売られているのは、大きく2種類です。ひとつがガムタイプ。消しゴムのような形で、部分的な汚れを擦り落とすのに向きます。靴のつま先に付いた一か所、というときはこれで足ります。
もうひとつが泡で落とすタイプ。メーカーの説明では、起毛革全体に付着した汚れ、染みこんだ汚れを泡の力で除去するとされています。全体がくすんできた、色が沈んできた、というときはこちらです。
どちらにしても、水に浸けて洗おうとしないでください。起毛革は水を吸いやすく、乾いたときに硬くなったり、輪のようなシミが残ったりします。落とすのは表面まで、と割り切ったほうが結果がいい。
そして汚れを落としたあとは、必ずブラシで毛を起こしてください。擦った場所は、確実に毛が寝ています。ただし泡タイプを使ったあとは、完全に乾いてからブラシをかけること。湿ったまま擦ると、毛が寝た状態で固まります。
ここが本命。クリームの代わりを務める:無色の栄養スプレー
スムースレザーで言えば、乳化性クリームにあたる工程です。起毛革の手入れで、いちばん結果が変わるところでもあります。
メーカーの手順では、日常の手入れでは、栄養を与えて色調を鮮やかに保つために無色のスプレーを使うとされ、そのうえで色が褪せている部分には色付きのスプレーやマーカーで補色するとなっています。
ここで、買うときの選び方をひとつ。色付きを先に買わないほうがいいと思います。起毛革の色は、同じ「ネイビー」でも靴ごとに違います。まず無色のもので栄養を入れて、それでも色が抜けて見える場所が残ったら、そこで色付きを足す。逆順にすると、色が乗りすぎたときに戻せません。
かけ方は、全体に均一に、軽く濡れる程度。一か所に溜めるとそこだけ色が沈みます。そして乾いたら、またブラシです。この工程のあとにブラシをかけるかどうかで、仕上がりがはっきり変わります。
頻度の目安としては、履いたあとのブラッシングは毎回、このスプレーは季節の変わり目や、色が褪せてきたと感じたときで足ります。起毛革は塗り重ねる革ではないので、やりすぎると毛が重くなります。
仕上げに。ただし防水だけのものでは足りない:起毛革に使えるスプレー
最後の工程が防水スプレーです。メーカーの手順にも、仕上げに使うことで水分だけでなく油分からも起毛革を守り、汚れがつきにくくなるので次回のケアが楽になるとあります。
起毛革はスプレーの効果がいちばん体感しやすい素材です。理由は、水をはじきやすいからではありません。逆で、しみ込みやすいからです。だからこそ守る価値が高い。
ここで、ケア用品ブランドのM.MOWBRAYが出している指摘が実用的です。防水だけを目的としたスプレーでは、革に必要な栄養が入らない。そして革から油分が失われると、撥水する力そのものが落ちて、色も褪せていく。だから同社は、栄養と防水を兼ねたスプレーを勧めています。防水だけのものは、雨の日の前にかける即効の道具として位置づけていて、効果はおおむね1週間ほど、としています。
整理すると、前の章の栄養スプレーと、この防水スプレーを別々に持つか、両方を兼ねた1本にするか、という選び方になります。道具を減らしたいなら兼用の1本。色も足したいなら、栄養と補色のものを本命にして、防水は雨の前だけ追加する。
選ぶときに、もうひとつ。防水スプレーにはフッ素系とシリコン系があり、シリコン系は表面に膜を作るので通気性をふさぎます。起毛革には、繊維1本ずつを包んで通気を残すフッ素系を選んでください。
かけるときの注意も。コロンブスの使用上の注意には、ヌメ革や起毛革などの浸透性のよい素材では、約15分以上の乾燥が必要とあります。薬剤がよく入る素材なので、そのぶん乾くのに時間がかかります。そしてシミや色落ちをする素材もあるので、目立たない部分で試してから。色が沈むと戻すのが大変な素材です。
なお、防水スプレーそのものの安全な使い方については、別の記事に詳しく書きました。屋外で、マスクをして、風上に立って。ここだけは素材に関係なく共通です。
買う前に確認すること。本革かどうかと、保管の話
ここまで道具を4つ挙げましたが、買う前に3つだけ確かめてほしいことがあります。
ひとつめ。その靴は本革の起毛革ですか。スエード調の合成素材、いわゆるフェイクスエードには、専用スプレーが使えないものがあります。革用の栄養成分は、そもそも入っていく相手がいません。タグや表示を確認して、合成皮革と書かれていたら、その製品の指示に従ってください。ここを外すと、道具代を払って靴を傷めます。
ふたつめ。ヌバックのスニーカーは、切り替えを見てください。起毛革とメッシュ、ゴム、合成素材が組み合わされていることが多い。起毛革用のスプレーを全体にかけると、他の素材にシミが出ることがあります。境目の多い靴ほど、目立たない場所で試す意味が大きくなります。そしてスニーカーだからといって水洗いしないこと。起毛革が入っている時点で、洗える靴ではありません。
三つめ、保管です。起毛革は湿気に弱く、しかも型崩れしてしまうとブラシでは戻りません。革靴と同じように1日履いたら1日から2日休ませ、シューキーパーを入れておく。この記事の道具を全部揃えるより、まずここのほうが効きます。
やってしまった人へ。クリーム、雨、寝た毛
すでに起きてしまった場合の話をします。
クリームを塗ってしまった。毛が潰れて、そこだけ光沢が出ている状態です。放っておいても戻りません。対処としては、起毛革用のシャンプーやクリーナーで、置いてしまった油分を落としてから、ブラシで毛を起こすという手順になります。ただし油分は落とせても、毛足の均一さまで元どおりになるとは限りません。範囲が広い場合や大事な一足なら、靴の修理やクリーニングを受け付けている店に相談するほうが確実です。
雨に濡らしてしまった。まず、慌てて拭かないこと。乾いた布で水分を押さえるように取り、風通しのよい日陰で乾かす。熱を当てると硬くなります。そして完全に乾いてから、ブラシで毛を起こす。乾く前に触ると、毛が寝たまま固まります。
全体的に毛が寝てきた、てかってきた。これは履いているうちに必ず起きます。とくにつま先と、足の曲がる部分。ここはブラッシングと、栄養スプレーを入れ直すことで、ある程度は戻ります。ブラシで起こしても戻らないほど押し潰れている場合は、修理店に相談する範囲です。
共通して言えるのは、起毛革は「戻す」より「寝かせない」ほうが圧倒的に簡単だということです。履いたあとにブラシを一度かける。それだけで、この章の話のほとんどが起きなくなります。
まとめ:塗らずに、吹いて、起こす
何を何本買えばいいのかを、はっきりさせておきます。
基本は3点です。起毛革専用のブラシ、起毛革用のクリーナー、そして栄養と防水を兼ねた無色のスプレー。兼用の1本があれば、栄養と仕上げを分ける必要はありません。
色が褪せてきたら、4点目として色付きのスプレーかマーカーを足します。最初から買う必要はありません。
頻度の目安も。ブラシは履いたあと毎回。クリーナーは汚れたとき。栄養は季節の変わり目や、色が沈んできたと感じたとき。ただし撥水の効き目は1週間ほどとされているので、雨に当たる予定が続く時期だけは、防水のかけ直しを短い間隔で考えてください。
スムースレザーの道具と共通するのは、「ブラシを使う」という工程だけです。毛質はまったく別物なので、道具そのものは新しく買うことになります。
まず1つだけと言われたら、専用ブラシです。いちばん安く、いちばん頻繁に使い、しかもこれをやっていれば他の工程の出番が減ります。起毛革の手入れは、道具を買う前に「履いたらブラシ」の習慣を作るほうが先です。
そして覚えて帰ってほしいのは、この一行です。塗らずに、吹いて、起こす。スムースレザーが「塗って、磨く」革なら、起毛革は「吹いて、起こす」革です。クリームを手に取った時点で、その靴には別の手入れが始まっています。
ヌバックは、革のいちばん上等な面を削って作られています。手をかける甲斐のある素材だと思います。














コメント