革靴の産地といえば、まず英国。次にイタリア。そしてフランス。だいたいこの3つで話が終わります。
ところがヨーロッパはもっと広い。今回は、その3つの外側にいる4つを紹介します。ハンガリー、オーストリア、スペイン、スイス。ただし面白いのは、この4つが「その国の靴」として語れないことです。
先に、「国で語る」が通じなくなる話を
英国靴には、ノーサンプトンという町とグッドイヤーウェルトという共通の製法があります。だから「英国靴らしさ」という言葉が成り立つ。イタリアも産地ごとに性格があり、それが語られてきました。
今回の4つは、そこがまるで違います。会社の国籍と、工場のある国と、作り手の出身国が、それぞれ別なのです。オーストリアの会社がルーマニアで作り、アルゼンチン人がイタリアで修業してスペインで店を開いている。「どこの国の靴か」という問いが、そもそも成立しません。
だから見るべきは国ではなく、誰が、なぜ、そこで作っているのかのほうです。以前フランスの革靴を扱ったときに「フランスには中心がないから、4つ選べば4つとも違う答えが返ってくる」と書きました。今回はその一歩先で、国という枠そのものが外れています。
まず手に取れるところから始めたい人へ。リボン屋の地下室から:Bally
スイスのBally(バリー)は、この4つのなかで唯一、日本の百貨店に並んでいるブランドです。実際に足を入れて確かめられる。だから入口として最初に置きます。あとで書きますが、この記事の答えそのものは別のところにあります。
この会社の面白さは、靴屋の家系から始まっていないところです。バリー家の家業は絹のリボンの製造でした。カール・フランツ・バリーも17歳でその家業に入っています。つまり彼はもともと、リボンを作る人でした。
ところがパリに滞在したことで、靴づくりへ移ることを決めます。よく語られるのは、パリで店の靴を丸ごと買い占め、それを手本に良質なものを作ろうとした、という話です。そして1851年、弟のフリッツと一緒に、実家の地下室で靴の会社を興しました。リボン屋の息子が、パリで靴に出会って、家の地下で靴屋を始めた。それが始まりです。
いまは服やバッグも扱う大きなブランドになっていて、この記事の他の3つとは規模がまるで違います。そのぶん、試着できるという一点で強い。ヨーロッパの木型が自分の足に合うのかを、まずここで確かめる。そういう使い方をする段です。
手縫いのウェルトを一足持ちたい人へ。途切れかけた伝統に立ち返った:Vass
ブダペストには、かつて靴づくりの伝統がありました。ウィーンと並ぶ中欧の靴の都で、独特の重厚な作りが知られていた。ところが社会主義の時代に入り、その手仕事は途切れかけます。
1978年、そこに戻ろうとした人がいます。靴職人のラースロー・ヴァシュです。公式サイトの言い方が正確で、彼は「自分たちの手仕事の根に立ち返るだけの勇気と気力を持った、ある世代の靴職人のひとり」だと書かれています。ひとりで救ったのではなく、そういう世代がいて、その中心にいた人だということです。
この会社の靴は、すべて手作業で作られます。とくに徹底しているのがウェルトの縫いで、ここに機械を一切使いません。すくい縫いを人の手だけでやるということです。1足が仕上がるまでに、200を超える手の工程を通ります。
店はブダペストの中心部にあり、既製の在庫を置きつつ、注文靴も受けています。いまは娘のエヴァ・ヴァシュが、語学を活かして各国の取引先とのやりとりを担っている。だからハンガリー以外の国でも買えるようになりました。
定番の型には「Budapest」「Alt English」「Norweger」といった名前がついています。ブダペストの名を冠した型があること自体が、このブランドの立ち位置を表しています。
そして日本での入手ですが、ここは思っているより現実的です。国内にこのブランドを扱うオンラインストアがあり、複数の型が在庫として並んでいます。本国へ問い合わせるところから始める必要はありません。
グッドイヤーウェルトとの違いは、履き込んだときの返り方に出ます。すくい縫いを手でやる作りは、機械で縫ったものより中物の詰まり方が変わるので、馴染むまでの時間も、馴染んでからの沿い方も別のものになります。英国靴を何足か履いてきた人が、その差を確かめる一足として面白い。
年に千数百足しか作らない工房が好きな人へ。会社と工場が別の国:Saint Crispin’s
「どこの国の靴か」がいちばん答えにくいのが、このブランドです。
会社はオーストリアです。1985年ごろから手製の注文靴を作りはじめ、1992年にミヒャエル・ロリッグがオーストリアで「Saint Crispin’s」という商標を登録して会社にしました。最初の注文靴を売ったのは、ドイツとイタリアでした。2003年からフィリップ・カーが経営に加わります。コンサルティングとITの世界から来た人で、職人の仕事に惹かれて移ってきました。
ひとつ補足しておくと、創業者のロリッグは2010年にこの会社を離れ、ウィーンで別の靴のブランドを立ち上げています。つまりいまのSaint Crispin’sは、創業者が去ったあとも同じ作り方を続けている会社です。
そして工場は、ルーマニアのブラショフにあります。働いているのは28人。全員がこの会社のなかで訓練を受けた人たちです。靴のおよそ95パーセントが手作業で作られ、年間の生産量は1500足ほど。1日に何百足も作る工場とは、まったく別の世界にいます。
ここで、この記事の主題がはっきりします。オーストリアの会社が、ルーマニアの職人と一緒に、28人で年に1500足を作る。これを「オーストリア靴」と呼んでも「ルーマニア靴」と呼んでも、何も説明したことになりません。国ではなく、この規模とこの作り方が中身そのものです。
このブランドも、日本に扱っている店があります。年に1500足という生産量を考えると、常に在庫が揃っているわけではありませんが、国内で実物に触れる道はあります。
作り手の人生ごと選びたい人へ。31歳で弁護士をやめた:Norman Vilalta
アルゼンチンで企業弁護士をしていた男が、31歳のときに気づきます。この仕事には、自分にとって大事なものが欠けている。手を動かして何かを作りたい。
2002年、ノーマン・ビラルタは弁護士をやめました。向かった先はフィレンツェです。そこで何人かの親方のもとに弟子入りし、靴づくりを一から学びます。師のなかにはステファノ・ベーメルの名前もあります。
そして2004年、拠点をスペインのバルセロナに移し、自分のアトリエを構えました。アルゼンチン人が、イタリアで技術を身につけ、スペインで靴を作っている。国籍でも産地でも語れない、というのはこういうことです。
作るものも、伝統をなぞるだけではありません。既存の型を疑うところから始めるので、この4つのなかではいちばん現代的な顔つきをしています。作り手の来歴ごと引き受けたい人には、ここがいちばん濃い。
まとめ:産地の名前は、もう答えではない
選び方の目安はこうです。まず手に取ってみたいならBally。手縫いのウェルトならVass。小さな工房の仕事ならSaint Crispin’s。作り手の人生ごとならNorman Vilalta。
この記事を読んでいる人の多くは、英国靴やイタリア靴をすでに何足か持っているはずです。だから正直に書きます。この記事の答えは、VassとSaint Crispin’sの2つにあります。手縫いのウェルトと、28人の工房。英仏伊では代えのきかない部分を持っているのはこの2つです。
Ballyは入口です。百貨店で試着でき、サイズも確かめられる。まだヨーロッパの木型に慣れていない人が、自分の足との相性を確かめる場所として使ってください。逆に言えば、すでに何足も履いてきた人にとっては、通り過ぎてよい段です。
買い方は、3つでまったく違います。VassとSaint Crispin’sは、日本に扱っている店があります。国内のオンラインストアで在庫を見て、そのまま買える。この2つを「本国に問い合わせないと買えない靴」だと思って諦めていた人は、まずそこを見てください。一方でNorman Vilaltaは、いまのところ日本に取扱店がありません。バルセロナの本店か公式のオンライン、あるいはニューヨークや香港の取扱店に当たることになります。
個人輸入をする場合は、送料と、合わなかったときの返送費用を計算に入れてください。関税については、革靴はもともと率の高い品目です。ただし今回の3つはいずれもEU域内から出てくるので、日本とEUの経済連携協定にもとづく税率が使えます。適用には原産地の申告など条件があるので、注文の前に販売元と税関の案内を確認してください。
最後に、この記事でいちばん言いたかったことを。「どこの国の靴か」は、かつては中身を説明する便利な言葉でした。産地が近ければ、職人も材料も製法も似ていたからです。ところがいまは、会社と工場と作り手の出身が別々の国にあることが珍しくありません。だから産地の名前は、もう答えになりません。
代わりに見るべきなのは、どれくらいの規模で、どこまで手でやっていて、誰がそれを決めているのか。今回の4つは、そこが極端に違います。同じ「ヨーロッパの革靴」という括りのなかに、地下室から始まった大きな会社と、28人の工房と、弁護士だった人のアトリエが並んでいる。産地で選ぶのをやめると、こういう見え方になります。














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